1.有馬家霊廟
 有馬家霊廟は、元和7年(1621)有馬豊氏が旧領丹波福知山から移封し、寛永3年(1626)藩祖則頼の墓を播磨国天正寺(神戸市北区淡河)から江南山梅林寺(久留米市)へ改葬したことに始まる。現在、境内北西部に2棟(西から梅林院他霊廟、春林院他霊廟)、高くなった背後に3棟(西から瓊林院霊廟、春林院霊廟、長寿院他霊廟)の計5棟がある。そのほか歴代藩主の三重石塔および家臣の霊廟、墓塔、供養塔が数多くある(注1)。
 有馬則頼(慶長7年・1602没)が墓塔覆屋、初代豊氏(寛永19年・1642没)と2代忠頼(承応4年・1655没)が墓塔霊廟と位牌霊廟に重複して祀られ、5代頼旨と11代頼威(明治4年没)を除くと、3代頼利(寛文8年・1668没)、4代頼元、6代則維、7代頼※(ぎょうにんべんに童)、8代頼貴、9代頼徳、10代頼永は三重石塔に祀られる。つまり墓塔霊廟から位牌霊廟、三重石塔へと変化する。
 徳川幕府の霊廟を除けば、現存する江戸時代大名家の霊廟・霊屋の建築群には山形上杉家墓所11棟、兵庫本田家廟所5棟、青森津軽家霊屋6棟、熊本細川家廟7棟、山形戸沢家霊屋6棟などがあり(注2)、有馬家霊廟5棟および三重塔7塔は有数である。

2.建築概要
(1)梅林院(則頼)他霊廟(墓塔覆屋)南西棟
 正面3間側面3間、入母屋造妻入、本瓦葺、南面。寛永7年(1630)頃[石燈籠銘]。則頼、同室(天正16年・1588没)、同女(寛永16年・1639没)の五輪塔を安置。二手先組物をもつ伝統的和様三間仏堂。

(2)春林院(豊氏)他霊廟(墓塔覆屋)南東棟
 正面3間側面3間、方形造、本瓦葺、南面。寛永20年(1643)頃[石燈籠銘]。初代豊氏、同室(承応元年・1652没)、2代忠頼、5代頼旨(宝永3年・1706没)の五輪塔安置。五輪塔の様式は豊氏→豊氏室→忠頼→頼旨の順に時代が降る。南西棟と同じく二手先組物をもつ伝統的和様三間仏堂。異なるのは屋根が方形造、正面脇間が連子窓、中央間中備の蟇股が四方にある、木割が木太く、建ちが低いために安定感があることなどである。

(3)瓊林院(忠頼)霊廟(位牌覆屋)北西棟
 正面3間背面2間側面2間、入母屋造妻入(旧方形造)、桟瓦葺、南面、附1間四方禅宗様宮殿、入母屋造妻入軒唐破風付、木瓦葺、厨子、雲首型位牌(北3棟共通)。承応4年(1655)頃[石燈籠銘]。2代忠頼の厨子(中に位牌)をおさめた宮殿安置。

(4)春林院(豊氏)霊廟(位牌覆屋)北中棟
 (3)と同じ。寛永20年(1643)頃[石燈籠銘]。初代豊氏の厨子(中に位牌)をおさめた宮殿安置。

(5)長壽院(豊氏室)他霊廟(位牌覆屋)北東棟
 (3)と同じ。慶安5年(1652)頃[石燈籠銘]。豊氏室の厨子(中に位牌)をおさめた宮殿安置。宮殿東側に9代頼則室智光院(文政7年・1824没)の墓塔。

 北3棟は禅宗様を基本とした軸部、簡略化された組物、木舞を用いた疎垂木で軽快な軒をもつ。造出しの礎石をもち、かつては柱元に根巻錺金物、内法長押に錺金物が設けられていた。屋根はもと方形造。軒はさらに約1.2尺出ていた。北3棟は各々矩計、部材寸法、細部が異なる。各宮殿は秀逸であり、宮殿が切石基壇上に安置されるのは珍しい。地方性が少なく、中央と共通した建築様式をそなえる。
 このように南2棟の霊廟は和様を基本とした正統的な仏堂建築であり、対照的に北3棟の霊廟は禅宗様を一部取り入れた工芸的な仏堂建築である。特に北3棟は、造出しの礎石をもち、かつては現在よりも軒の長い方形屋根をもち、柱元に根巻金物があり、軽やかで華やかな建築に復原できる。
 大工等は不明だが、南2棟と北3棟の技法の系統は異なる。南西棟は1丈/26支、南東棟は1丈/22支(もしくは1丈/23支)の支割制という中世からの設計技法により平面が計画されている。対して北3棟は工芸的手法がもちいられる。推測すれば、作事の重きは宮殿にあり、宮殿を得意とする工匠が覆屋とをあわせて請け負った可能性もありうる。

3.史料
(1)寺記(注3)
寛文8年(1668)年8月13日
 道哲様御霊屋之儀、梅林寺方室へ相尋候処、惣而隣国大名方も霊屋ハ無之、石塔ニ而候間、今度御石塔ニ而可然、もっとも御霊屋ニ而も可宜思召次第と申達

同年12月24日
 梅林寺五ヶ之御霊屋、沢方室申出候、山下二箇之内一箇ハ豊氏公御両親之為被為成御造候、一箇者、忠頼公道長居士之為被為成御造候、長寿院殿御塔も壱所ニ御安置、其後瓊林院殿御塔も一所ニ御安置被候成候、山上ハ道長居士、長寿院殿、瓊林院殿ニ而、道哲公御石塔御建被成可然由

 8月13日条では、隣国大名は「霊屋」ではなく惣じて「石塔」であるので、道哲様(頼利)の場合も石塔にすべきかというお尋ねに対して、梅林寺住職は霊屋でも良く思召次第である旨答えた。実際、頼利以降藩主は三重石塔となる。また12月14日条には、「山下」南2棟の内1棟は初代豊氏が父則頼と同室のために建て、もう1棟は2代忠頼が豊氏(道長居士・春林院)のために建設し、長寿院(豊氏室)の塔をあわせて安置、さらに後に瓊林院(忠頼)の塔を一緒に安置したこと、「山上」北には道長居士(春林院)、長寿院、瓊林院の霊廟がすでにあり、道哲公(頼利)の石塔が建てられることが記される。寛文8年時すでに5棟の霊廟が存在し、南東棟は当初豊氏の五輪塔のみが存在し、後に豊氏室、忠頼、頼旨の五輪塔をあわせて納めたことがわかる。

(2)梅林寺蔵「江南山圖」
 箱蓋表に「江南山圖 三幅對 狩野栄伯筆」、裏に「天明四甲辰四月吉日 平井京之助再装矛寄附 現住天山代」と記される。狩野永伯(貞享4・1687~明和元・1764)は正徳4年(1714)に城中御間の絵を描き、享保17年(1732)に梅林寺湘山玄澄像を描いた(注4)。「江南山圖」が描かれた時期は正徳から享保期頃、降っても没年の明和元年以前であろう。
 「江南山圖」中には5棟以外にも廟らしき建築がみえ、北3棟の前に唐門が描かれる。北3棟は配置が若干異なり、瓦葺宝珠付方形屋根、尾垂木付組物、さらに春林院霊廟(北中棟)に向拝が描かれる。ただし、遺構において向拝痕跡は確認できない。

(3)篠山神社蔵「梅林寺御廟所」
 有馬家墓所全体をあらわし、遺構配置とよく対応する(篠山神社文書B251-93A)。作製年代は、寛政3年(1791)の8代頼貴息桑之助(大雲院殿)の五輪塔が描かれ、文化元年(1804)の7代頼※(ぎょうにんべんに童)4子頼端の三重塔が図中にないので、その間と考えられる。霊廟北3棟の基壇四隅に角柱、三重石塔の前に拝所らしき建物など、現在確認できないものが多数描かれる。

4.結
 久留米梅林寺内の有馬家霊廟5棟は、つぎのような特徴をもつ貴重な遺構群である。

(1)棟札・墨書等は未確認であるものの、石燈籠銘、寺記等より寛永7年(1630)から承応4年(1655)頃に建立されたと考えられる。

(2)5棟の霊廟建築のほか数多くの墓塔・供養塔からなり、全国でも有数の霊廟である。

(3)霊廟などが増えていく様子、墓廟(墓塔と覆屋)→位牌廟(位牌をおさめた宮殿と覆屋)→三重石塔へ変化していく様子がわかる。

(4)南2棟の墓塔覆屋と北3棟の位牌覆屋という異なる役割が建築的に表現されている。

(5)北3棟の霊廟に安置される宮殿・厨子は、覆屋とほぼ同じ時期に建てられたと考えられ、極彩色、漆、箔により荘厳された秀作である。


(注1)『筑後梅林禅寺』,九州歴史資料館,1983年(山本輝雄「久留米梅林寺の建築」),坂田健一「梅林寺藩主の石塔」『久留米郷土研究会誌』第7号,1978年

(注2)村上健一『霊廟建築』,日本の美術No.295,至文堂,1990年

(注3)『福岡県史』近世史料編久留米藩初期(下),1997年

(注4)『久留米市史』第13巻資料編(美術・工芸),1996年

出典:河上信行「有馬家霊廟」(『日本建築学会九州支部研究報告集』、平成22年3月)

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2010/ 3/23   有馬家霊廟  

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