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河上建築事務所

-kawakami architect office-


2007/10/31  旧立花家住宅の概要と沿革

 福岡県柳川市新外町にある国指定名勝松濤園は、旧柳河藩主立花家の庭園および住宅である。柳川城の西南隅、外堀にかこまれた地はかつて柳河藩の別邸があり、おそくとも元文3年(1738)には藩主が生活していた。往時別邸は「お茶屋」「御花畠」と呼ばれ、戦後以降の料亭旅館「御花」につらなる。旧大名家による営業がつづく旧立花家住宅は文化財活用の先駆として特筆される。
 旧立花家住宅は、13代鑑寛時代の前身建物「御隠亭」をへて、14代寛治の代に建設された(明治43年落成披露)。当時の建造物は「西洋館」「大廣間」「御居間」「家政局」「門番詰所」、門、煉瓦塀、蔵1棟などが現存する。敷地内には、13代鑑寛時代に造営された可能性がある庭園松濤園、江戸時代からの東庭園がある。
  西洋館は屋敷全体の玄関であり、接客にもちいられた。木造2階建、正面張出し・西玄関・便所・煙突付き、中折屋根、一部切妻造妻入、寄棟造、スレートおよび一部銅板葺、北面。1階が車寄・玄関・家従詰所・應接室・食堂・西玄関、便所、2階がもっとも格式の高い廣間を中心に喫烟室・婦人室・階段上リ立ノ間からなり、東西に階段がある。
 庭園にのぞむ大廣間は、「客間」として西洋館とともに接客にもちいられた。平屋建、入母屋造、四周庇付、北西角屋(旧繋ぎ)付、桟瓦葺一部銅板葺である。主屋は東から18畳(床棚付書院付)、18畳、12畳(当初床棚付書院付)の部屋が庭に面してならび、南北に1間幅の畳敷の入側をもうける。庇は南が濡縁のある吹き放し、北と東が広縁、西が室内に取り込まれる。本格的な書院造であるが、梁間5間の小屋組のキングポスト・トラス、窓ガラス、電気による照明など、近代技術を取り入れる。
 御居間は14代寛治夫妻、15代鑑徳夫妻のための住宅である。伝統的な書院造でありながら、ガラス障子、電気照明など近代の特徴をそなえ、大廣間と並んで庭に向かう配置も江戸時代の大名家住宅ではみられない。大廣間とくらべると簡略化されている。平屋建、寄棟造、南北東に庇、西に大廣間との旧繋ぎ、北に入母屋造角屋付。雁行する平面は御書齊6畳、殿様御居間8畳、御茶所4畳半、御納戸6畳、奥様御居間8畳、御部屋6畳、若殿様御居間8畳の7室と各御次ノ間7室の計14室を中心に土庇や縁、廊下、張出し部分が取り付く。
  これらの建築は明治30年11月に普請がきまったものの、日露戦争の影響で着工が遅れ、同39年頃から工事がはじまる。同43年(1910)5月29、30日に内装や家具、電気設備などをのこして落成披露がおこなわれ、12月29日「大建築御竣成」につき記念の品がくだされた。西洋館は建築本体が明治42年中に竣工し、同43年9月頃に内装・家具がそなわった。大廣間は同41年4月30日に棟上、42年中に竣工。御居間は同41年8月17日に竣工。家政局は役所部分が同42年6月に竣工。家政局隣の鶴ノ間は同42年5月7日頃に建方、同42年中に竣工。家政局につらなる御膳所部分は同42年10月14日に建方がおこなわれたが、竣工年月は不明である。
  西洋館は福岡県技手(工事中に愛知県技師に転身)の西原吉治郎が設計した
1)。亀田丈平(旧福岡市呉服町)が設計2)と工事監督(「製圖設計及工事監督」)を嘱託され(明治39年10月13日~40年4月8日)、後に佐賀県技手であった長男亀田友次郎が「家屋改築監督」を嘱託され(明治40年4月8日~43年6月20日)、永嶋文太郎が建築助手(明治40年10月8日~43年2月10日)をつとめた。
  大工は大廣間と西洋館が博多中対馬小路の讃井傳吉
3)、御居間が地元の久冨元一、家政局ほかが地元の江頭徳太郎である。


1)西洋館の設計者である西原吉治郎については第5節参照。西洋館の設計者について、通説では福岡県公会堂貴賓館(明治43年・重文)などを設計した三條栄三郎にあてることが多い。西原吉治郎は、明治40年10月30日付書簡(柳河藩立花家文書4161-2-27)によれば、そのころ愛知県に奉職することが決まっていた。三條栄三郎は佐賀県技師(明治38年~41年)をへて福岡県技師(明治41年~大正13年9月)となった。つまり、明治40年末から41年にかけて、西原吉治郎と入れ替わりに、三條栄三郎が佐賀県から福岡県へ異動したことになる。佐賀県技師時代、西條はセメント強度試験結果を亀田に渡しており(年不明、柳河藩立花家文書2130-4-20)、福岡県技師時代、大正4年10月避雷針建設の際に立花邸をおとずれている(『玲扶日記』)。しかし、三條栄三郎が西洋館を設計した跡は認められない。

2)久冨元一が明治39年7月3日に「御新築圖面実地縄引」、8月23日に「御新築製図設計等」をおこなっており、久冨元一が和館の設計にかかわった可能性がある。各建物の矩形図中に記される文字の使い方、勾配値には共通性がみいだせず、一人の設計者のもとで設計されたとは考えにくい(第3章第3節注)。

3)讃井傳吉は福岡県宮若市にある貝島六太郎邸(大正4年)にも携わった。

出典:名勝松濤園修理事業委員会『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書第1編修理工事』2007年
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